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2006年3月31日 (金)

教育に想う その2

私は知らない子供にでも、朝は「いってらっしゃい」、帰りは「お帰りなさい」と声を掛ける。大部分の子供から”いってきます”、”ただいま”と元気な声が返ってくる。これが自然ではないか。

ところが知らない子供にやたらに声を掛けるものではないと注意されることがある。どうしてそんなことになってしまったのだろう。悪者が多くて危険だからか、防犯カメラが、防犯ブザーが守ってくれると錯覚しているのかな。守ってあげれるのはひとである。

最近、プライバシーの保護とやらが横行し、新しいクラスの名簿作りさえ困難だという話を聞く。先生の家庭訪問もままならないらしい。余程知られたくない悪い事をしているのだろうか。そんな家庭程、礼儀、躾けまで学校任せにして、何かあると権利だけ主張して騒いではいないか。

現場の先生方は大変ご苦労されていると思う。いうことを聞かないで他の子供に迷惑を掛けている子供には、構わずお尻を叩いて叱ってよいと思う。それが教育である。

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2006年3月29日 (水)

教育に想う その1

間もなく今年も小学校新一年生の入学式を迎える。

新一年生は希望と不安でいっぱいなのではなかろうか。ランドセルは、鉛筆は、名札は、靴は、カッパは揃ったかな。近くにお友達はいるかな。

家族も、特にお母さんは、成長したわが子が入学する日を一番楽しみにしているのでないだろうか。大丈夫か、安全か、試しに子供の手を引いて、通学路を歩いてみているかな。

無事に学び、育って欲しいと思う。

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kyouiku

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2006年3月25日 (土)

食べ物に想う その5

私は、畠を少しお借りして農作業を始めてから20数年が経つ。勿論無農薬栽培である。直接触れる土の感触を大事にしたいと思っている。

作物を育てるのは愛情である。愛を込めて作った野菜は、何と言っても新鮮で、食感が違うし、色彩豊かで、風味がある。形の悪いもの、小さいものでも愛おしくて大切に頂く。取り立てで切り口に露の出ているものを、ゴルフの女性友達や最近ではパソコンの女性友達にもお配りしている。

今我が家では、故郷新潟から「新潟こしひかり」と「越後味噌」を送って貰って、あったかいご飯に、熱い味噌汁で食事を頂く。酒も越後の銘酒である。有り難いことである。

興正法句詩抄の『つつしんで』の一節が浮かんでくる。  とぼしけれど まずしけれど いまのさずかりは有難し ものたりぬまま やすらかにあるは なお有難し つつしんで いま生きる深さを味わう。 

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2006年3月24日 (金)

食べ物に想う その4

戦中、戦後の少年時代の記憶を書いていると、どうしても暗くなる。悲惨だった戦争の事を、学徒出陣のことを、大空襲のことを、原爆被災のことを、次の世代に語り継いでいかないといけないとよく言われる。語る、話す、聞かせる。書く、読ませる。写真を、遺品を見せる。様々なことが言われ、事実やられてもいる。

でもそれは無理なのである。食べ物で満ち溢れている時代に、食べる物がなかったと、どんなに語ろうと、聞かせようと、読ませようと、見せようと、理屈で理解出来ても、実感として分かる訳がないのである。

体験がないからである。体験してはじめて骨身に滲みて残るものなのである。別の視点からみると実によく出来ているとも言える。

何か大事件が起きると、徹底的に調査対策して、再びこの様なことが起こらない様に再発防止に全力で努めます。と謝罪するが、当事者がいる間は何とか防止できても、時が経ち人が変わると又起きるのに似ている。法も、研修も、マニュアルも役立たないのである。起きてから言う批評家、評論家、有識者と言われる人ほど駄目な感じがする。足が現場に立っていないからである。

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食べ物に想う その3

私が少年であった戦中の学徒動員時代、動員先で激しい空襲に襲われた。作業を止めて岩盤の固い防空壕に逃げ込んだのであるが、もし100分の1秒も爆弾の投下時間がずれていたら命がなかったかも知れない。至近距離に爆弾が何個も投下された。物凄い響きと振動であった。高射砲も火を噴いて発射されたが相手にならない。後で見ると1個の爆弾で直径何十メートルの円錐形の穴が開いていた。

帰宅といっても鉄道は動かない、日は暮れてくる。駅前ですごく時間が経ってから、代替えの普通トラックがやって来た。何処まで行けるのか分からないのだが、荷台が満員になった。そこからどうやって家まで辿り着いたのか、浮かんで来ない。

待っている間だったか、初めてもしもの時にと言って、母が用意して呉れて、ポケットに忍ばせておいた小さな袋を開けた。炒った大豆が入っていた。大事に10粒か20粒食べた。母は何処で手に入れ持たせてくれたのであろう。

母は偉大である。戦後はもっと食料事情が悪くなった。自分の食べるものを割いても尚、子供に与える食べ物の無かった時代、どんなに辛く、切なかったことだろう。今になってしみじみと思う。 母への想いが募る。

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食べ物に想う その2

私が少年であった学徒動員時代、動員先から街にあったデパート迄、毎日当番が昼食の配給をかなりの距離を歩いて取りに行った。その頃デパートは一階が大きな炊事場になっていて、人数分を容器に入れて貰ってリヤカーで運んだ。中身はコウリャンや豆かすの混ざった米飯であった。おかずなど全く覚えていない。

又月一回配給になる大福を、当番が海軍の担当施設まで何キロも歩いて取りに行った。甘いものなど全くない時代である。小さな大福が一人1個か2個配給になった。

その時食べた大福の甘塩っぱい味は、何十年経った今でも舌の何処かに記憶され、こびりついて残っている。

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食べ物に想うこと その1

今は物が何でもあって、したい事が何でも出来る時代なのであろう。もし物が少しでもなくなったら、したい事が少しでもできなくなったらどうなるのであろう。

レシピ、グルメガイドも氾濫しているし、テレビには多くの料理番組があり、料理人と称する人が様々なものを紹介している。一流料理人とは、そのままで優れている素材を、無駄に使い更に様々なものを混ぜ合わせ、こね回し、見た目をきれいに飾りつけする技術屋のことだろうか。美食に飽き足らない人に用いる手品の様なものではないか。本質は別の所にある様に思えてならない。

デパートの地下の食品売り場に立って、しばし呆然と立ち尽くすことがある。本当に何でもあって、しかも一つのものでも種類が沢山あって、その中から選んで買うのである。野菜、果物、お菓子、酒、飲み物、--。水、お茶でも同じ様な価格で何十種類と並んでいる。 4つ5つの子供が、にがいジュー(ス)、と言ったり、今日のデザートはと当たり前の様に聞く。

私が戦中の小学生の頃、持参のお弁当を前にして、”箸とらば、天地御代の御恵、きみと親とのご恩を味わえ”と唱えて箸をとった。ここにもきみ(天皇)が出て来るのはオカシイが。今はどうだろう、小学校の給食現場を見ていないから分からない。

又軍馬の飼い葉にと言って萱を刈って干し、学校に持って行った。荒地を開墾して綿などの栽培もした。咲いた白い花が可憐であった。

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2006年3月22日 (水)

桜に想うこと その3

靖国神社は元々勝てば官軍の、勝った側の亡くなった方を祭ってあって、負ければ賊軍の亡くなった方は祭っていない。なのに太平洋戦争で負けてしかもA級戦犯になった方が合祀されているのだろう。素朴な疑問である。

本来、桜と戦さを結び付けてはいけないのである。桜は桜で古より何も変わっていないのである。

私は春、東海道線、おおいそ駅に近い高来神社から登った高麗山、高麗公園。或いは一つ先の にのみや駅に近い吾妻神社、そこから登った吾妻山公園までの中腹にあるもない桜木が好きである。その下の草むらに腰を落として、江ノ島や三浦半島を望み、相模湾の海や空をぼおっと眺めているだけなのだが。

冬は、冷たい風に煽られながら、越前町の山の中腹の、雪の中に咲く水仙の花を見ながら、敦賀半島を望み、黒い越前の海を眺めるのが好きである。

今年は思い切って、おくだりさんになって、青森弘前城の桜と角館の桜を見に行ってみようかな。

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桜に想うこと その2

丁度お彼岸である。

段の靖国神社にも一の鳥居、二の鳥居にかけての参道にがある。その中の一本の桜が開花予想の標準木になっていて、気象庁の職員がわざわざそこに行って、二輪、三輪と開花した花の数をかぞえる、暇な様だが現場に行って確認するという事は大事だからまあいいか。今年も開花宣言がやっと出された。平和である。

私の中の下の方のレイヤーで削除の効かなくなっているレイヤーがある。戦時中私も親父  を戦地に見送ったし、田舎の結婚していた従兄弟を戦地で亡くしている。            靖国神社例大祭であったか、時が定かでないが、”天皇陛下万歳”と言って国の為に命を落とされた遺族の、地方の代表の方達が靖国に招かれる。

天皇(大元帥陛下)が玉砂利の参道を静々を歩まれる。その姿に接して、親父を、子供を、夫を亡くした遺族が、参道の両側のむしろの上で、頭を垂れてひざまずく。異様ではないか、逆ではないか。その疑問を今でもずっと引き摺って来ている。

(昭和)天皇は戦後あちこちの地方や施設を訪問されている。でも本当にやることをやられたのであろうか、行く所に行かれたのであろうか。今となっては知る由もない。

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2006年3月19日 (日)

櫻に想うことその1.

今年もちらほら桜たよりが聞かれる季節がやって来た。

桜を見ていると、そのレイヤーの裏にある何枚もの桜のレイヤーが表に滲み出て来て翳りをつくる。私が5年生になった4月に、尋常高等小学校は国民学校に変わった。式の時には、奉安殿の扉を開き、校長が礼服に白手袋で「教育勅語」を恭しく掲げて講堂まで運び、読み上げた。「教育勅語」は暗記させられた。

昭和18年に或る中学校に入学する。13,14才の少年であったが、大東亜戦争の真っ只中であった。教練が必須科目で、「軍人勅諭」正しくは「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」で今度はこれを暗記させられた。 1.軍人は忠節を尽す本文とすべし。1.---。<天皇に対する絶対忠誠>。天皇は頂点に立つ大元帥閣下だったのである。

「教育勅語」と「軍人勅諭」は敗戦まで天皇制国家イデオロギーの2大支柱だった様に思う。

軍歌:歩兵の本領  満だのか襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ ---。

同期の桜  貴様と俺とは同期の 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散ります国のため ---。

若鷲の歌  若い血潮の予科練の 七つボタンはに錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞が浦にやでかい希望の雲が湧く ---。

昭和19年、私の親友は予科練に志願し合格した。打ち明けられたのは校庭のの下だった。間もなく私は学徒動員で学業を離れる。彼はとうにいない。彼の実家のある鎌倉の西御門や、二階堂の桜並木、それに”この道はいつか来た道”を思い出させる鎌倉山の桜並木は好きである。でも滲み出て来る翳りは消せない。

大東亜戦争は連合国側の表記で太平洋戦争と呼ばれ、第2次世界大戦とも呼ばれる。

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2006年3月12日 (日)

鶯の初鳴き

3月12日、6時過ぎ ホー、ケキョ、ケキョのうぐいすの鳴き声で眼が覚める。

起き上がって、そおっと戸を開けてみる。何と私の家の残花になった梅の木に姿が見えた。

ありがたや、ありがたや。

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大草山しだれ梅園その2

写真を入れてみます。一つは横で申し訳ありません。勉強します。

06 06

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2006年3月11日 (土)

大草山しだれ梅園

y.mさんに誘われ案内されて、初めて3月7日に舘山寺温泉の近くにある大草山しだれ梅園を訪れた。大草山中腹にある梅園は、個人で長年掛けて作られたもので、入り口の所に

いまだ見ぬ竜の姿やしだれ梅”と墨で縦書きに書かれた立て看板が立っているだけの素朴な梅園で、入園料を払って中に入ると、先ずつよい梅の香りに春を感じる。白、紅の花が織りなしてしだれ咲いている、近場で知る人ぞ知る梅園であった。湯茶の接待もあり、苗木も売られていた。

私は水戸偕楽園の梅園、東横線沿線の大倉山梅園、熱海梅園、豊岡村の豊岡梅園などに行っているが、大草山の梅園は規模も味わいも異なる梅園であった。

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